僕たちは希望という列車に乗った

幸福なラザロ。彼は何者なのか。

東西ドイツ『ヨーロッパ映画を観よう!』シリーズ2回目は、イタリア映画です。有名なイタリア映画というと、『ニュー・シネマ・パラダイス』や『ライフ・イズ・ビューティフル』、最近だと『君の名前で僕を呼んで』もイタリア人の監督の作品です。

この映画はフィルムで撮影されているそうです。フィルムってカメラでいうと、黒い筒状のケースに入っていたフィルムをカメラにセットして、写真をフィルムの枚数撮り終えて、現像してもらうまで写真がみれなかった、あのひと昔前のデジタルじゃないカメラで使われていたもの。今のカメラは(特殊な人を除けばだいたい)デジタルカメラを使っているように、映画の撮影も今じゃデジタルが当たり前な時代。(映画館の映写機もデジタルですよ!刈谷日劇にはフィルムの映写機もありますが、普段はもう使っていません。)

デジタルだと撮影後すぐにその場でシーンを再生して観ることができますが、フィルムはできません。デジタルだと何回も同じテイクを撮っておいてあとでいいのを選ぶというような撮影ができますが、フィルムは高価ですし1本15分など時間的な制約もあることから、莫大な量の記録を無駄に残すような撮影方法では撮りません。一度撮影したフィルムには上書きなんてできません。便利なデジタルではなく、あえてフィルムで撮った、そのこだわり。フィルムのもつやわらかさ、あたたかさ、曖昧さみたいなものが、この映画をさらに美しくしている要素のひとつになっていると思います。フィルムの良さを堪能してもらうためにも、この映画はぜひ映画館で観ていただきたいです。

前知識なしにみると、途中戸惑うシーンもありますが、その不思議さこそがこの映画の醍醐味なのかもしれません。そして、そこから独特のアリーチェ(監督)ワールドに突入し、どこが着地点なのか想像もつきません。できればそこを楽しんで欲しいので、前知識ない方、この先は読まずに、まず映画をご覧ください。前知識あった方がゆっくり深く鑑賞できるという方は、ネタバレな部分もあることを了承して読み進めてください。また、物事が白か黒かはっきりしてるハリウッド映画じゃないとモヤモヤして映画楽しめない(という方が刈谷日劇の映画を観るとは思えませんが、、、そういう)方にはオススメしません。

幸福なラザロ

実際、ハリウッドのヒーローものの対極にあるような作品です。派手なアクションもなく、分かりやすい善悪の縮図もなく、必ず最後に正義が勝つとか、自己を犠牲にして大勢を救うとかの大義名分もない。2018年のカンヌで脚本賞を受賞していますが(同じ年のパルムドールは『万引き家族』でした)カンヌ好みの、玄人好きする映画な感じです。ハリウッド映画の大半が娯楽としての映画だとすると、『幸福なラザロ』は、芸術作品としての映画です。大衆小説ではなく、純文学のような。

ラザロ、ヘブライ語読みで「エリエゼル」は、「神は私の救いだ」という意味で、その名前は聖書に出てきます。「ヨハネによる福音書(新約聖書)」によると、ラザロは病気で死にますが、死後4日目にキリストにより生き還らせられます。これを目撃した人たちが「キリストの奇跡」を信じることで、のちのキリストの復活やキリストの伝えていること(=神からのメッセージ)を信じることができ、そのことより「神を信じるものは救われる」というキリスト教の教えてにつながっていく逸話です。この「ラザロの復活」は、多くの宗教絵画のテーマとして取り上げられています。
ラザロの復活

 
映画の中で描かれるラザロは、不満不平を漏らさず、頼まれごとは全て引き受け、持てるものは与えようとし、運命をそのまま受け入れています。純粋無垢なラザロの眼差しは真っ直ぐで美しく、美しいイタリアの田舎の風景にあって、心が洗われるような気がします。フィルムの効果もあって、映画が始まってすぐはいつの時代設定なのかわかりませんが、携帯電話を持つ人物が出てくることでこれが現代だとわかります。現代なのになぜそんな生活?と疑問を持ちながら、ストーリーは芸術的な美しさに、ファンタージーのような不思議さを織り交ぜながら、進んでいきます。

この前半部分は、イタリアで1980年代に起きた実際の事件をベースにしているそうです。

中盤に差し掛かるとことで、ある変化が起こり、そこからは舞台も変わります。どういうことなのかわからないままストーリーは展開していきますが、わからないままでもいいかと思い、ラザロの善良さとラザロを取り巻く人々の織りなすドラマを楽しんでいると、たくさんの疑問と余韻を残してラストがやってきます。

ラザロとタンクレディエンドロールで流れる音楽を聴きながら、なぜ、この映画のタイトルは『幸福なラザロ』なんだろうかと考えました。イタリア語の原題も「Lazzaro Felice」で同じ意味ですが、英語のタイトルは「Happy as Lazzaro(ラザロのように幸福)」です。『幸福なラザロ』の意味するところは、ラザロの幸福のことなのか、ラザロは幸福だったのか、ラザロの犠牲にした幸福のことなのか、などいろんな解釈が渦巻きます。ラザロを観ながら、全てを容認できるような究極の極地に至るには知能は邪魔なのだろうかと、ドストエフスキーの『白痴』のムイシュキン伯爵を思い起こしました。

ラザロの幸福について、ラザロの流した涙についてや、ラストの意味するところを、どう感じるのか、どう解釈したいのか、どう落とし込むのか、観終わってからもしばらく、考えました。後からじわじわくる映画です。ストーリーをわかった上で、もう一度ゆっくり観たいと思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。