ONODA 一万夜を越えて
Onoda, 10 000 nuits dans la jungle
G
フランス・ドイツ・ベルギー・イタリア・日本合作
アルチュール・アラリ
遠藤雄弥、津田寛治 、仲野太賀、松浦祐也
オフィシャルサイト
bathysphere


ONODA 一万夜を越えて

小野田さんと横井さんのことを知ったのは子供の時でした。もしかしたら、帰国した際のニュースなどを見聞きしたのかと思ったけれど、1970年代前半(横井さん1972年、小野田さん1974年)に帰国したとわかり、私がニュースなど観ているわけないので、その後何かのきっかけで知ったのだけど思うのですが、とにかくそんな人(たち)がいるなんて!とものすごくびっくりしたのを覚えています。

小野田さんのそのジャングルでの生活に関しては、素晴らしい緊張感と客観的な視点で静かに強く描いている本作で感じてください。3時間と長尺なのですが、あっという間です。フランス人が監督なのですが、最初にフランス語表記でプロダクションの紹介などがなければ、日本の監督の作品だと思ったくらい日本人の心情を映像で表現できていたと思います。同時に、フランス人だから客観的に描けたのかもしれない、とも思いました。(本作の最後に表示される吉武美和子さんは、映画を通じてフランスと日本の架け橋になれるよう映画プロデューサーとしてパリで活躍されてい方で、2019年に癌で亡くなられました。)

本作は小野田寛郎さんのジャングルでの生活の話ですが、このレビューでは同じように二十数年ジャングルで過ごした横井さんとの違いについてにふれながら小野田さんのことを書いていきたいと思いますので、観賞前の予備知識として、前知識を入れずに映画を観られたい方は鑑賞後に読んでいただけると幸いです。(映画のストーリーと若干違うところもあります)



まず、軍の階級。ざっくりいうと、トップの下が、左官(大佐、中佐、少佐)、その次が尉官(大尉、中尉、少尉)、准士官、下士官(曹長、軍曹、伍長)、兵卒(兵長、一等兵、二等兵)という感じで、小野田さんは少尉、横井さんは伍長でした。少尉以上の階級を将校(オフィサー)といい、会社でいうと経営幹部や幹部候補、それ以下の士官はヒラ社員から課長くらいのイメージでしょうか。なので、小野田さんは幹部候補、横井さんはチームリーダーくらいの位置づけですね。

そのため、ジャングル生活に入るときに持っていた情報量が全く違いました。

横井さんは、上層部が持つ情報にふれておらず、ジャングルに入ってから情報を手に入れる事もほとんどありませんでした。そのため、戦争が終わったのを本当に知らず、敵に捕まることからただ逃げて逃げて生き延びようとしていました。地元の漁師に遭遇して捕まってしまった横井さんは、日本へ帰国した際に(「生きて本土を踏むのは恥だ」という軍事教育を受けていたため)「恥ずかしながら生きて帰ってまいりました」と答えました。

一方、小野田さんの帰国後第一声は「天皇陛下万歳」でした。

小野田さんは戦前は、4年ほど上海の貿易会社で商社マンとして働いていました。そのため、中国語と英語ができ、上海ではフランス租界などで社交するような青春を送ったそうです。語学ができ、(当時では珍しかった)車の運転免許証を持っていたなどの理由のためか、士官学校を卒業後に諜報員として特殊な訓練を受けます。軍や天皇を批判する論議も行えるような、当時の軍事教育の枠に囚われない学校だったようです。

小野田さんがフィリピンのルバング島に終戦の8ヶ月ほど前に派遣された時は、当時の司令部が持つ情報を全て与えられた上で(ある意味、敗戦するだろうとわかった上で、その後を見越した)特殊任務を受けて赴任しました。



ジャングル生活にはいってからも、ラジオでBBCなどを聴くことで、日本が敗戦したことは知っていたけれど、敗戦後の日本は敵(アメリカ)に占領されているが表面下で闘う準備をしているはずと信じていた小野田さんは、(改めて体制を整えた日本軍の援軍が来てもわかるように)ジャングルにいるということをアピールするために畑を焼いたり略奪をおこなったりして、その存在を知らしめていました。

そのために何度が国から捜索隊が出ているのですが、敗戦を知っていたことと秘密の命令を受けていたこと、フィリピンに駐在しているアメリカ軍の戦後の動きを観察していたことなどから、軍の直属の上司から直接命令を聞くまでは、誰のいうことも信じないと決めていました。

戦後のアメリカの動きというのは、朝鮮戦争参戦とベトナム戦争にかけての動きです。小野田さんは、フィリピンに赴任した際に日本はアメリカに負けるだろうとわかっていました。けれど、その当時、日本は負けるだろうと思っていた軍上部は負けてもそれは一時的なものでその後また体制を整え直して闘い続ける、と考えていたようで、本作の中でも「3年でも5年でも生き延びて戦い続けるのだ」と上司に言われる場面があります。

第二次世界大戦の終了5年後に朝鮮戦争が始まり、アメリカもこれに加担したため、フィリピンにあるアメリカ軍の基地から飛行機や艦隊が多く行き来しました。小野田さんのいたルバング島は米軍基地があるマニラ湾を望む形で位置しているので、それらのアメリカ軍の動きが観察しやすかったのです。3年から5年くらいで再度奮闘すると聞かされていたため、小野田さんにとっては、秘密の命令と矛盾していないことになります。

朝鮮戦争終了後は、1965年からベトナム戦争が始まります。小野田さんは、戦いが南下したと考えていたので、さらに南にあるフィリピンに戦いがやってくるまで、ルバング島で戦い続けなければならないと思っていました。

こういった事情から、小野田さんと横井さんは潜伏の仕方が違いました。小野田さんは、存在を隠さず食糧やラジオなどを奪ったりしながら、食料品も含め重さ20kgの装備を抱え、 1か所に留まるのは2、3日という常に居場所を点々とした生活でした。

一方の横井さんは、戦争は終わっていないと思っており見つかると殺されると思っていたので、人里離れたところに(深さ2メートル、奥行き6メートルの横穴を掘って)拠点を作り、略奪することなく、カエルやネズミなどを食べ隠れて生活していました。横井さんは、戦争で徴兵される前は洋服の仕立て屋をしていて手先が器用だったため、最終的には簡易機織り機を手作りして植物の繊維で糸、布を作って継ぎ接ぎなどのない洋服を着て、漁をするための捕獲籠など手作りしてエビなどを捕って生活していました。

小野田さんも横井さんも当初は数人で行動しますが、最終的に一人で生活していたのは小野田さんは2年ほど、横井さんは8年でした。



ジャングル潜伏生活が終わるのは、10万人の日本人が観光客として訪れるグアムにて横井さんは現地の人に捕まる形で、小野田さんの方は残留日本兵がいるという噂がずっとあるルバング島に単独(都市伝説的なものを探す意味合いで)探索にきた戦後生まれの24歳の鈴木紀夫という青年に発見され、直属の上司の命令でないと投降しないと言ったことが日本政府に伝わった結果の投降でした。

戦中の日本からジャングルの生活を経て高度成長期の日本へ帰ってきた後、横井さんはすんなりと当時の日本の生活に馴染み、陶芸にはまり家に窯まで作って展覧会なども行いました。小野田さんは馴染めず帰国後1年してブラジルに移住します。何もない荒れ果てた土地を耕し、牧場として成功させました。その際に気候を読む力、水のありかがわかる力などジャングルで培った能力が役になったそうです。

横井さんは帰国して25年後の1997年に82歳で亡くなりました。ジャングル生活よりも短い余生でした。小野田さんは2014年に91歳まで亡くなりました。

小動物の供養と彼の経験を活かして平和の尊さを残してほしいという遺言を残したため(横井さんの奥さんが)横井さんのお墓の横に供養塔をたて、自宅を改修して横井さんが暮らしていた横穴の実寸代の模型などを展示している横井庄一記念館を建て(コロナのため立ち寄ることはできませんが)今も存続しています。小野田さんは、1980年の神奈川金属バット殺害事件をきっかけに、目的を持って自立できる子供を育てることを目指し小野田自然塾を開催し小野田さん亡き後も塾は続いています。
私は小野田さんのことについては、ある程度まで他にも一緒に人がいたことや、将校で情報を持っていたことなど知っていましたが、やはり映像で見ると本などでは知ることのできない極限状態がいかに厳しいものなのか感じることができたと思います。小野田さんは耳に蟻が入って鼓膜を破いてしまったそうですが、蟻避けのために(音が聞こえないと状況が判断できないため)耳栓は怖くてできなかったそうです。横井さんも入口は小さな穴である横穴で暮らしていたにもかかわらずジャングル生活では熟睡したことがなかったそうです。 小野田さんたちの経験を通して、何にも恐れることがなく普通に暮らしていけることがどんなに尊いのか、改めて感謝したいと思いました。とにかくすごいです。ぜひ劇場の大きなスクリーンでご鑑賞ください。